スティーブ・ジョブズが傾倒したことでも有名な禅の思想。セレブが傾倒しているとなると、とたんにかっこよく見えたりするものですが、とはいえ、禅というと、なんだかこむずかしい感じがして腰がひけてしまいそうになるのも事実です。
実は、人生や日常において、ためになる禅のエピソードが多いこと、ご存知でしょうか。今回は、家族とうまくいかなくなりがちなコミュニケーションの参考にするという切り口から禅語にまつわるエピソードをご紹介します。今日から禅女子(ガール)になってみませんか。
禅は歴史の授業でも習いましたよね…。臨済宗、開祖:栄西、著書:興禅護国論、中心寺院:建仁寺。曹洞宗、開祖:道元、著書:正方眼蔵、中心寺院:永平寺、…。
おそらく当時は機械的に覚えた(覚えようとした?)のみで、「禅」ってホントのところどうなのよ?と知りたいと思った女子など、ほとんどいないのではないでしょうか。
禅宗は仏教の一派です。発祥は中国ですが、インド人の達磨大師が開祖です。日本に純粋な禅宗が伝えられたのは、鎌倉時代であり、日本の禅宗が盛んになったのは室町時代です。仏教学者の鈴木大拙が1950年ごろから禅をアメリカに紹介したことをきっかけに禅(ZEN)ムーブメントは世界へと広がっていきます。
それでは、家族のコミュニケーションに役立てたい禅語にまつわるエピソードを3つ、ご紹介します。
茶一杯の禅理のエピソードは以下のとおりです。
学者:禅師…?茶碗からお茶があふれていますよ?
南隠禅師:これが今のあなたです。
茶碗からお茶があふれてしまうくらい、学者の頭のなかが先入観や自分の意見でいっぱいなので、そんな状態ではとても禅のことなどとても頭に入らないよということを南隠禅師は伝えたかったようです。
もしかしたら、南隠禅師は、「禅のことなど論破してやる!」もしくは「私は既に禅のことは理解している!」というような学者の気概を察知したのかもしれませんね。
しかし、だからとて「あなたの頭の中は先入観でいっぱいだから、禅のことを伝えても無駄だ」とくそまじめに言葉で伝えれば、雰囲気は険悪になっていたかもしれません。学者の頭でっかち感を察知した南隠禅師は、茶碗にお茶を注ぎあふれさせるという手段で自身の本意を伝えたわけです。
日常生活で「茶一杯の禅理」みたいなことはしょっちゅう起こっていますよね。家族内で言い争いや喧嘩が起こるのは、たいてい皆が茶一杯の禅理の「学者」側に立っているからです。
一人でも南隠禅師のように、相手の先入観を指摘できる人がいればいいのですが…。とはいえ、そもそも相手の先入観を指摘するまえに、自分の先入観をなくすことが大前提です。
家庭内でこんないさかいよくありますよね。
妻:ちょっとぉ!!洗い物してって頼んだのに、皿の裏、洗ってないじゃない!ちゃんとやってよ。
夫:なんだよ。せっかくやってやったのに。もう家事なんか手伝わないからな。
妻の先入観は「皿洗いのとき皿の裏まで洗うのあたりまえ。夫が家事を手伝ってあたりまえ」。夫の先入観は「妻が家事をするのあたりまえ。夫が家事をするときは、あくまで『やってやってる』スタンス」。
こんな先入観を持ったままで喧嘩が始まると、お互いが納得することはありません。先入観を持ったままで、相手にあたりまえを押しつけているだけだからです(まあ、皿の裏を洗うのは主婦としてあたりまえですが)。
しかし洗い物に慣れていない人なら皿の裏まで洗うことまで行為が及ばないという可能性は十分に考えられます。喧嘩を建設的に終了したいなら、いちはやく自分と相手の先入観に気づき、お互いの先入観をなくすところから始めなくてはなりません。
妻の方は、「洗い物に慣れていない人は、皿の裏にまで気が回らないこと」に気づくべきですし、夫の方も、「家事は妻がやってあたりまえだと思っているからこそ妻の指摘に腹が立つ」のだということに気づくべきです。
禅寺の玄関に掲げてあるという「脚下照顧」の文字。「玄関にあがるとき履きものはそろえてね!」という次元の話ではなく、もっと深イイ意味があるのです。
師匠:お前たちどうする?一句読んでどうするか伝えてみなさい。
弟子たち:(ああまた師匠のテストが始まった)
弟子たちの答えに師匠はなかなか満足しません。一人の弟子が答えます。「看脚下(足元を見よ)」。師匠は満足しました。
師匠が満足した「看脚下」という答えとは「別に小難しく考えることもない。足元(自分)をよく見て歩けばいいじゃないか」ということです。
なにかにつけ弟子たちに禅の真理を尋ねたこの師匠は、脚下照顧の指す「なにごとも自分次第なのだ」という弟子の答えに満足したのです。
やれ「夫の給料がもっとよければ」「うちの子もおとなりさんところみたいに頭がよかったら」「親が裕福だったらマイホームもローンなんて払わず親に買ってもらえるのに」などと他人ことばかりあれこれ言わずに、まずは自分を顧みましょうよ、と脚下照顧という言葉はいさめてくれているのです。
母:もう、なにこの通知表!?勉強しないからこんな成績なのよ。
子:ママは子供のころ勉強したの?ママの通知表見せてよ。どこにある?
母:それは…。
子どもに勉強しろという前に自分のことを省みたことはありますか。脚下照顧にならうなら、まずは自分が勉強している姿を子どもに見せてあげることです。なにか資格にでも挑戦するなどどうでしょうか。親が楽しそうに勉強していると、子供も真似しますよ。
ところで、「脚下照顧」の話を聞いてなにかに似ているなと思ったのですが、それは童話の「青い鳥」です。先人の知恵者たちは、手を変え品を変え、幸せに生きるための真理を伝えようとしてくれているのに現代に生きる我々は、なかなかの受け取り下手であるみたいですね。
なんだかどきつい禅語ですが、エピソードは以下のとおり。
仙厓和尚は説明します。「子や孫が、親や祖父母に先立つことがない。順番通りに死んでいくこと。これ以上幸せなことがあろうか」。(仙厓和尚でなく、一休宗純のパターンもあり。)
説明される前なら、確かにこんな書をかかれたらぎょっとしますよね。自然な順番ならば、確かに親が死に、子が死に、孫が死ぬのでしょう。けれども、必ずしもそうだとも言えないですよね。
不慮の事故や病気、自殺などで子や孫が、親や祖父母に先立つことはいくらでもあるのです。ほとんどの人は「親死子死孫死」の順番をたどるのに、あたりまえ過ぎてその幸せを顧みることがありません。「親死子死孫死」。つまり、あたりまえの幸せのことです。
あなたの家族はどうですか。他愛ないことをきっかけに家族と喧嘩したり、親からうるさく言われて腹を立てたり、自分の子供が言うこときかなくてイライラしたりしますが、家族と他愛ないことで喧嘩するのも、親からうるさく言われて腹が立つのも、子供が言うこときかなくてイライラするのもすべて「生きている」からです。
親があなたにうるさく言えるのも、あなたが生きているからであり、あなたが子どもにイライラするのも子供が生きているから。「親死子死孫死」。このエピソードを知ったら、自分が生きていること、親が生きていること、子供が生きていることに感謝できそうですよね。
一休:師匠、なぜ人は死ぬのでしょう?
師匠:生きているものはすべて死ぬ。これが自然の流れじゃ。
一休:師匠!師匠の茶碗に死期がきました!
師匠:…。
師匠、お気の毒ですとしか言いようがないこのエピソードですが、詭弁を使えと言う意味ではなく、普段の生活でも大いに参考になります。
師匠の大切な茶碗を割ってしまった。あなたならどうしますか。素直に謝るでしょうか、それとも自分が茶碗を割ったことを隠してしらんぷりでしょうか。どちらも、割ってしまった茶碗を「師匠の大切な茶碗」と認識したうえでの行動ですよね。
一休は、即座に茶碗に対する視点を変換しました。
「師匠の大切な茶碗」→「生死と同様、かたちをずっととどめ得ないモノ」
例えば、子供の教育方針で夫婦喧嘩をしているとします。
夫:公立でいいじゃないか。だって僕だって公立でやってきたし。公立で何が不満なんだ。
妻:だって近くの公立の学校、荒れてるっていうし、公立に通っていたら学力が…。きっとレベルの低いお友達しかできないし。
夫:お前は学力レベルで人を差別するのか。お前の考え方がおかしい!
妻:いやあなたの方が変よ!
こんなときに活かしたい「茶碗の禅理」。視点をずらしてみましょう。夫婦が願うのは「子供の幸せ」のはずです。いかに夫の意見が間違っているか、妻の意見が間違っているかを指摘し合うことではありませんよね。
いざ相手の意見に納得できないと、どうしても人間関係は対立構造になってしまいます。いったん、いかに自分の意見が正しいかと言うことを片方が主張しはじめると、相手もそれに負けじと主張しはじめます。
お互いのメンツやプライドを守ることに夢中になって、そもそもなんのために対立しているのか忘れてしまう。そんなときは「茶碗の禅理」を思い出してみてください。
一休は「師匠の大切な茶碗」から「生死」という大きな視点に話をスライドさせました。「自分の意見の正しさ」からもっと大きな視点、先の例なら子供の幸せに「視点をずらす」のです。
禅エピソードをいくつか見てきましたが、最終的にはどのエピソードも伝えたいことは同じことのような気もします。「あるがままで存在し、あたりまえのことをあたりまえにこなす」。
むちゃくちゃ修行した人が悟ってわかったことがこれだけ?という気もしないでもないですが、この「あるがままにあたりまえのことをする」ことがいかに難しいかと言うことですよね。